【紅茶茶園名鑑】岩永製茶園

【紅茶茶園名鑑】岩永製茶園

基本情報


茶園名   岩永製茶園
茶園主   岩永周子
茶園管理者 門内智子
産 地   熊本県山都町馬見原
創 業   1960年
商品ブランド
栽培方法   農薬・化学肥料不使用,有機栽培
受賞歴   【ジャパン・ティーフェスティバル プレミアムティー
コンテスト2019★★★】
【国産紅茶グランプリ2018 チャレンジ部門 銀賞】
【国産紅茶グランプリ2017 チャレンジ部門 金賞】
紅茶用栽培品種   在来品種(岩永1号、他)、たまみどり
たかちほ、やぶきた
 

茶園概要


〈生産者紹介〉




【門内智子さん】
 山都町馬見原は、肥後の国(熊本)と日向の国(宮崎)を結ぶ旧道「日向往還」の中心に位置し、かつては大関所がおかれた交通の要衝であり、宿場町として栄えた。最盛期には17もの造り酒屋のほか、芸妓置屋や茶屋などが軒を連ねていた。「馬見原商店街」は、今でも石畳や土蔵が並び、歴史を感じさせる街並みが残されている。
 そんな風情ある街並みの中に、「岩永製茶園」の茶畑がある。智子さんは、父の代から始められた伝統ある釜炒り茶作りを引き継ぎ、そこに「和紅茶」という新しい切り口を加えて、今も馬見原でのお茶作りを守り続けている。茶園の歴史を紐解けば、智子さんの祖父が戦後、幼少時代を過ごした馬見原に土地を買い、その後、智子さんの父である岩永博氏(昭和4年生まれ)の手により、釜炒り茶作りが始められたのであった。博氏が亡くなった後は、妻の周子さんが茶園主となり、娘の智子さんと二人三脚でのお茶作りが始まった。



ー父、岩永博氏が始めた茶作りー


 岩永博氏は、農林水産大臣賞も受賞している、馬見原でも有名な釜炒り茶の名手であった。しかし、もともと茶農家ではなかったため、茶作りを始めた当時は隣の家の釜を借りて、茶を炒ったという。それを機に、茶に興味を持ち、近所が釜茶をつくっていたのを見て覚え、茶畑を増やし、工場を建て、茶業に進んだ1)。岩永製茶園は、このようにして始まったのである。
 岩永製茶園では、茶園の約半分で「やぶきた」、「たまみどり」、「たかちほ」などの品種が栽培されているが、残りの半分は、100年ものの在来種や、その在来種から特に優良なものを選別した、「岩永1号」である。実はここに、先代の岩永博氏がこだわり抜いた「茶作り」に対する想いが隠されている。



ー近代化の波と「こだわり」の狭間でー


 当時、茶園の機械化・近代化が進む中、県の茶業試験場からは「やぶきた」を中心とした茶園整備への転換の指導があった。同時に、農薬や化学肥料を使った肥培管理が推奨され、多くの茶園がこのやり方に従ったが、博氏だけは、そのやり方に疑問をもった。一部の茶園を「やぶきた」に転換したものの、在来品種をあえて残し、農薬散布の指導に対しても強く反対して農薬不使用を貫いた。結果、何が起きたか。標高600mの馬見原は冬の寒さが厳しく、また新芽の大敵である遅霜にも、度々見舞われる。「やぶきた」は霜による被害を多く受ける結果となり、結局は昔から自生していて霜に強い在来種の方が、安定した収量を確保することができた。



 こうして、貴重な在来種は今日まで守られ、娘の智子さんの手により、岩永製茶園による「紅茶作り」という新しいページが刻まれることになる。父親が残した「岩永1号」は紅茶にすると、優しい渋みと深い旨味をもち、繊細な琥珀色の水色を呈する、岩永製茶園を代表する美しい紅茶となった。

【出典】
1)廣部 綾乃 国際文化研究論集第8巻 『日本における釜炒り茶文化』 2010年



〈生産地と取り組み〉




ー日本を代表する釜炒り茶「青柳」ー


 釜炒り茶生産が盛んな地域として知られる熊本県の上益城郡山都町は、もともと自生するお茶の樹(ヤマチャ)が多くあり、それらを利用して古くからお茶作りが行われていたと言われている。特に、馬見原を含む旧蘇陽町は、釜炒り茶の「青柳(あおやぎ)」で有名であり、青柳は嬉野茶と共に日本における代表的な釜炒り茶である。
 「青柳」の由来は、元禄年間(1688~1704)まで遡り、当時の馬見原の国境番所の役人が、この地の茶が素晴らしいと賞賛して「青柳」と命名し、藩主の細川候に献納したと伝えられている。また、一説には、「青柳」は加藤清正(1562~1611)の朝鮮出兵により連れてこられた大工、石工、左官などの技術者が、ヤマチャで釜炒り茶を作ったのが始まりとも言われているが、これは、実際のところは定かではない2)



ー霧深い歴史ある茶産地ー


 いずれにしても、300~400年以上も前から、自生しているお茶の樹を使って釜炒り茶が作られ、それを献上していた歴史があったという事実は、この地域が茶の栽培に適していたことを明確に示唆している。馬見原を含む旧蘇陽町の南半は、阿蘇溶結凝灰岩の丘陵・台地からなり、標高は約600メートル、五ヶ瀬川の流域にあたり、冷涼で昼夜の寒暖差も大きく霧が発生しやすい。これらはどれも、茶の生育にとって、優れた気候条件を備えていると言える。
 明治5年(1872)の史料には、「馬見原町青柳製茶拾斤」の記述も見られ(原田家文書)、明治21年(1888)には馬見原町に茶業組合が設置され、さらに同33年(1900)には「馬見原製「青柳茶」改良研究所」が設立された3)

【出典】
2)泉 敬子 生活科学研究 『地方茶について』
3)山都町指定文化財一覧(ウィキペディア(Wikipedia))



〈生産へのこだわり〉




ー「紅茶作り」の新たな一歩ー


 先代である父の博氏は釜炒り茶作りの名手であり、岩永製茶園で紅茶を作り始めたのは、智子さんである。紅茶を作り始めたのには、理由があった。
 ある日、海外のティーバッグの紅茶を淹れて飲んでいた時、パッケージの裏に書かれた原産地表示に、ふと目をやった。書いてあったのは、「インド」や「セイロン」といった表記のみ。はたして、この紅茶をどのような人が作り育て、どのような製法で加工され、製品化され、遠く日本にまで届けられたか。その文字からは何も読み取れなかった。
 もちろん、今であれば、生産者の情報は、調べれば多少の情報は出てくるだろうし、美味しい紅茶も探せばあるだろう。しかし、それらはどれも、遠く海を隔てた国の話であり、本当に詳しいことは、行ってみないと分からない。智子さん曰く、『その当時、目の前に広がっている茶畑を見て、ふと、(うちの茶葉で紅茶を作れないだろうか)と思い、それとなく父に話しをしてみたところ、釜炒り茶の香りを大事にしていた父からは、「作ってみるのは良いが、機械に紅茶のにおいが移るので、うちの工場は使ってはいけない」と言われた。そのため、父が存命していた頃は、隣地区の工場にお願いして、紅茶作りを教えて頂きながら、作らせてもらっていた』、とのことである。



ー何度も通った紅茶名人たちの工場ー


 たくさんの苦労と障害はあったが、実際に紅茶を作ってみると、香味の優れた、素晴らしい品質の紅茶が出来上がったので、「売ってみないか」との声がかかった。さらに幸運なことに、隣接する宮崎県の五ヶ瀬や熊本県内には、日本でも指折りの紅茶生産農家が集まっており、彼らから直接、紅茶作りの先端技術の指導を仰ぐことができたのだ。製茶のシーズンになれば、名人たちの工場に足しげく通い、学んだ技術を自ら実践し、製茶技術の精度を上げてきた。そうするうちに、徐々に紅茶のラインナップも増えていき、それにともない、紅茶に対する評価も、目に見える形で上がってきた。ついには、国産紅茶のコンテストで、見事に受賞することができた。努力が結実した瞬間であった。
 馬見原は標高が高く冷涼なため、茶の初摘みは5月15日頃からになるが、その頃になると茶は「新茶」としては扱ってもらえず、緑茶としての価格も日に日に下がり続ける。そのため、母である周子さんは、父の博氏とともに、茶を入札にかけるのではなく、自販するようになり、物産展などで自園の特性をアピールすることで、商品価値を高める努力をしてきた。結果的にではあったが、遅芽で作ることが適している紅茶作りは、馬見原において地域性に則った、一定の合理性とメリットを持ち合わせていた、といえるのではないだろうか。



ー父の代からの無農薬栽培ー


 茶の栽培に関しても、博氏の代からずっと、無農薬栽培にこだわっている。博氏が亡くなり、智子さんが茶園管理を行うようになってからは、無農薬に加え、有機栽培の実践にも取り組むようになった。茶の樹の手入れも、自分の手でやる。茶は毎年収穫し続けると、だんだん高さが出てきて、枝が多くなり、葉が小さくなっていく。そのため、定期的に台刈りを行い、収穫改善をしなければならないのだが、これが、決して簡単ではなく、多大な労力を伴う。基本的には、智子さん一人で茶園を切り盛りし、あとは繁忙期に手伝ってくれる限られた人手だけで茶園を管理しているため、自園を維持すること自体が大変であり、生産量を大きく伸ばすことができない。そのためにも、生産量は多くなくとも、「品質にこだわった茶作り」を大事にしているのである。



〈加工へのこだわり〉




ー「繊細な紅茶」をどのように実現するかー


 岩永製茶園の紅茶の特徴は、他の紅茶には持ち得ない「繊細さ」である。特に、在来品種が持つ繊細さは、他の品種茶には決して真似ることができない、唯一性をもっている。また、繊細さを重視している紅茶の特徴として現れるのが、「旨味」である。岩永製茶園の在来品種は、もともとの品種特性として、紅茶の渋みやボディ感を強く感じさせるような要素を強くは示さない。そこであえて、「紅茶らしい紅茶」を作ろうとするのではなく、「繊細な味わいと香りを呈する紅茶」を目指した方が、在来品種の個性を活かすことにつながるのではないか、と考えるようになっていった。
 岩永製茶園の紅茶は、とても不思議だ。どの品種で作った紅茶も、熱湯で10分以上蒸らしたところで、強い渋みを全く感じない。それどころか、時間をかければかけるほど、お茶の旨み、甘味、そして香りとが茶液にじっくりと抽出され、どんどん美味しく感じられるようになるのだ。通常の紅茶ならば、10分も蒸らせば渋みとえぐみで、飲めたものではないはずである。10分蒸らしてさらに美味しさが向上するような紅茶は、探してもなかなか見つかるものではない。これが、在来品種の品種特性を生かした、岩永製茶園の紅茶の「唯一の個性」なのである。10分も待てない、と言わず、じっくり、美味しい紅茶ができる時間も、楽しんでみて欲しい。



ー父が残した在来品種で作り続けるー


 岩永製茶園には、100年ものの在来種も存在しているが、そうした在来種の中から、特に香味が優れているものを選抜し、挿し木によって増やしたものを「岩永1号」と名付けた。これらの在来種は、400年以上もの昔から脈々と歴史を紡いできた「ヤマチャ」の子孫であり、耐寒性に優れ、直根で深く大地に根を張っているため、馬見原の冷涼な気候下でも力強く生育する。岩永製茶園の紅茶は、確かに「繊細」であるが、その一方で、どこか野性味のある「個性」を感じさせるのは、幾数百年もこの地で生き続けてきた生命力そのものの力、なのではないだろうか。



ー智子さんの紅茶にかける想いー

初めて、紅茶を作ってみたい
と話した時、父から
「匂いが移るから、うちの工場で作ってはいけない」
と言われました。
(うちの父は昔ながらの作り方にこだわった釜炒り茶の生産者でした。)

私が他の工場で試作した紅茶を飲んで、父は
「紅茶を作るなら、中途半端にはするな。するならちゃんとしなさい」
とも言いました。

その言葉が頭にあり、たまたま機会にも恵まれ、台湾中国をはじめ、日本各地の紅茶産地を巡ったり勉強会に参加させていただいたりして……
今に至ります。

その父が亡くなり……

うちの工場で使わなくなった古い小さな揉捻機で茶葉を少しずつ丁寧に揉むようにしたら、その年から紅茶で評価をいただけるようになりました。

父の言葉が無かったら、今の私の紅茶は出来てなかったと思います。

私1人でどこまで出来るのかわかりませんが、今年も茶の樹と会話しながら……
私らしく紅茶に向き合っていけたらと思っています。

岩永製茶園 紅茶商品ラインナップ

【岩永製茶園】たかちほ1st 2019

【岩永製茶園】岩永1号1st 2019

【岩永製茶園】在来1st手摘み 2018

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